美しい欲と醜い欲

この夏は、わたしのなかの「性」「性欲」と向き合ってきた。

性とは、オープンさと秘めやかさを同時に内包するものだ。
美しくもあり醜くもある。
あまりひとに知られたくない面も往々にしてあるものだから、わたしは家族以外あまりひととも会わずに、いつになくこもりがちなサマーバケーションを過ごした。

夏を通して見つめ続けたものだから、さすがにまただいぶ明らかになったものがある。
光を当て、解放され、肩の荷もおろした。
そうして、セクシュアルなものはつくづく、扱いが厄介だなぁとひと息ついた。
というか、欲そのものの取り扱いが厄介なのかもしれない、と思う。

ひとが、
何かをしたい、
何かが欲しい、
という欲があるとき、その欲が誇らしかったり、あるいた恥ずかしかったりするのは面白い。
欲そのものは純粋であり、何かを傷つけたり、隠したり、披露したりする必要はないはずなのに。
ただピュアなだけ。
美しいも醜いもない。

たとえば、
小さな子がいるお母さんがたまにはひとりでカフェでゆっくりしたいと思うことに罪悪感を感じたり、
環境運動や社会への貢献的なキャンペーンをすることを誇らしげに披露したり、
ビーガンの仲間のなかでお肉が好きな自分を恥じたり、
わりとあるある、な光景だと思う。

純粋な欲は恥じる必要などない。
ただ、世間体を氣にしたり、見栄だったり、偏見だったり、余計な欲(承認欲求とか)がプラスされていたり、そんな余分なものがくっついていると、その純粋な欲が汚れて見えるのだ。
だから、隠したい、知らんぷりしたい。
そうして生きていくことが窮屈になる。

どうしたらいいのか。
欲から汚れをぬぐう手間がいる。
純粋な欲を見つめる勇気がいる。
そうしても、もしかしたら、その純粋な欲さえ見るのが辛いときもあるかもしれない。
いまの自分の器と不釣り合いだったりすればなおのこと。
そんなときは、そっと光の箱にしまっておくしかない。
ときおりその箱をあけて確認しながら、安心してそれを取り扱える自分になるまで待つしかない。

大丈夫。
その箱は間違いなく守られている。
だって、それをお預けするのは神さまだから。
神さまにお任せして、自分を整えたり、成長させたりしてちゃんと抱きしめられるまで待ってみること。
それもまた委ねの道なのだと。

そんなことを知ったひと夏であった。

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