待つということ

1992年に起きたマクドナルドコーヒー事件をご存知ですか?

ドライブスルーで買ったコーヒーでやけどした男性がマクドナルド相手に訴訟を起こしたもので、わりと有名かと思います。
わたしはそのとき、中学生で、この裁判に衝撃を受け、ものすごく腑に落ちない氣持ちを抱いたのを覚えています。なんせ、やけどを負ったとはいえ約3億円近くの損害賠償金額が叩き出されたから。
なんか不条理!

そのときは、いまみたいにネットもなく、詳しく聞けるひともなく、モヤモヤしていたものの、やがて忘れていきました。
時がたち、、、
先日、夫が読んでいる法律の本が何となく面白そうで借りて読んでみたら、なんとそのマクドナルドコーヒー事件の法律判断その他の背景が詳しく記されていました。
ビックリしてよく読んでみて、ようやくいろいろなことに納得したのでした。
なるほど、なるほど。

しかし、まさか、ここで「つながる」とは。
数十年を経てもらった答え。
そして、中学生だった私に、面と向かって再会したわたし。
つながり、の仕方の思わぬ深さに感動したのです。
すぐに答えがもらえなかった、その意図と配慮の深み。
自分の思惑を越えた、「答え」の意味の大きさ。

待つ、しかなかったんだな、と思います。
そうして、待つ、ということの意味さえ教えていただいたのだと思います。
また、同時に信じるという意味の大きさも知らされました。
もっと下がりない、とずっと言われ続けていましたが、前のめりの姿勢ではこれらを知ることはできなかったと思います。

情熱も直感も大切。
だけど、それをよく働かせるには、一歩下がって広い視野を得た状態で、深く息をしながら信じて待っていなければいけない。
俯瞰する、ということがもたらすものはあまりにも大きいと思います。

焦らないで。
自分に適切なスピードで、歩んでいくこと。

数年前の大寒波でいったん枯れたヘチマが、イキイキと緑鮮やかに復活しました。
いのちの息吹は、わたしたちには手に負えない。
だから、信じて待ちましょう。
何もかもを。

0コメント

  • 1000 / 1000

おやつやさんのおやつとお手当

おやつ、お手当、生きる、家族、痛み、性被害、光… ここは小さな水源。